07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その十六】 |
03 09(月) 子育ての要諦 |
(from 03/02--近況報告) 下平好上様 いつもお世話になっています。 徳島の須知晃一です。 このたび母親87歳を亡くしました。 世の中や人の温かさを痛感しました。 幼児教育の勉強はつづけています。 あらゆるひとと幼児教育の話をして実践しつつあります。 さらに経験を積んで市の保健婦さんにもたのみます。 現在米国のデューイの教育哲学も勉強しています。 経験による教授理念と学校と社会のありかたを問う、 プラグマテックな教育です。 ルソーの方法序説も面白いです。 いつも感謝しています。 貴重なアドバイス有難うございます。 770-0863 徳島市安宅 1-7-18 須知学習塾 須知晃一 (088)653-1713 kouichisuchi@ce.tokushima-u.ac.jp ----- Original Message ----- From: 下平好上 To: KouichiSuchi Sent: Sunday, January 04, 2009 8:15 AM Subject: Re: 0歳教育拝見いたしました。 |
@ 中国の望子成龍 一面の記事 海越え、全員特進クラス――第2部〈望子成龍〉(1/2ページ)2009年3月9日3時1分 千葉県木更津市の山あいにある暁星国際高。寮で暮らす中国・大連出身の2年生、劉詩チー(リウ・シーチー、チーは王へんに奇)さん(18)の机には「堅持(チエンチー)(頑張り続けろ)」と書いた紙が張ってあった。勉強に行き詰まると、これを見つめて再び参考書に向かう。目指すは国立大医学部だ。 全校生徒304人。このうち45人が中国人で、全員が難関校をめざす特進クラスにいる。昨年、中国人生徒4人が東京大に合格した。同校からは毎年、東大に数人が入る。「うちから国公立大に合格するほとんどは中国人ですよ」と寺井義行副校長(60)は話す。中国人生徒たちが難関への進学実績に貢献している。 中国人生徒のほとんどは中国の高校で1学年を終えた後、暁星国際高の1年に編入する。3年生の魏ルー(ウェイ・ルー、ルーは王へんに路)さん(18)は来日時、「あいうえお」しか知らなかった。朝7時半から夜遅くまで11時限の授業を受け、自習にも励んで、2年半後の今年2月、第1志望の東大を受験した。10日の合格発表を待っている。 中国人生徒を受け入れるきっかけは94年。北京などの2高校と姉妹校の協定を結び3人を受け入れた。最初の全国模試で数学や物理で偏差値70をとる中国人生徒を見て、寺井さんたちは驚いたという。いまは江蘇省の名門高校、蘇州中高等部からの生徒が多い。 中国人高校生が日本にきて、日本の高校の大学受験の戦力となる。教育現場にまた一つ、新しい現象が生まれた。 各地で難関といわれている進学校でも、中国人生徒が存在感を増している。こちらは日本育ちの子供たちだ。 生徒の国籍のデータはないが、開成中(東京)の葛西太郎教諭は「日本名を使う生徒も含め、親が中国籍の生徒は各クラスに1〜3人はいる」。筑波大駒場中(東京)の塩谷健副校長は「各学年に2〜5人はいる。ここ10年、コンスタントに入学している」と話す。灘中・高(神戸)でも「各学年約200人のうち少なくとも3人前後いる」(倉吉寛教頭)。学年トップクラスの生徒もいる。 こうした生徒たちの父母の多くは80年代末以降に留学生などの身分で来日した中国人だ。「大学や企業の研究職が多い」(開成中)、「サラリーマン家庭も増えてきた」(筑波大駒場中)という。 学習塾でも中国人の子が増えた。首都圏で1万4千人が通うサピックス。各教室平均して3%前後が中国系の名を持つ生徒で「現場の実感として徐々に増えている」という。ほかの大手も感触は同じだ。 「中学受験は親の受験」と言われる。小学6年生の場合、講習などを含め年百数十万円が必要とされる。難関校への挑戦と合格は、華人家庭が経済力や情報力を高めている表れともいえる。 「望子成龍(ワンツーチョンロン)」(子供の出世を願う)。日本で生活の基盤を築いた華人たちが、わが子にさらなる飛躍を託す。(林望、香取啓介、浅倉拓也) 三面の記事 「人生は競争」勝ち抜く――第2部〈望子成龍〉(1/3ページ)2009年3月9日3時1分 ■英才教育を徹底 2月3日、超難関校として名高い開成中(東京都荒川区)の合格発表。上海出身の沈中元(シェン・チョンユワン)さん(41)は、合格者の受験番号を記した掲示板の前で、長男(12)と妻をカメラに収めた。「受かったことに驚きは全くない。きょうはただ確認しに来た感じです」。国立大付属中や他の難関私立中にも合格した。 長男には英才教育を施してきた。沈さんによると、幼稚園児の時には連立方程式を解き、小学生になると中学の教師用の教科書で勉強した。 沈さんは京都大大学院から日本エネルギー経済研究所に入り、課長に相当するグループリーダーを務める。長男は日本で生活を築いていく可能性が高い、と思う。「中国人という生い立ちにはハンディもある。少しでもいい環境と、多くの選択肢をつくってやりたい」 東京都葛飾区に住む唐文栄(タン・ウェンロン)さん(38)は、長男(12)が小学校に上がる時、夫を日本に残して実家の上海に戻り、地元のインターナショナルスクールに4年間通わせた。 きっかけは、長男が幼稚園児の時に始まった「ゆとり教育」。区立小の教科書を見て、薄さと内容にがくぜんとした。長男には米国の大学進学を視野に、幼稚園児の時から英語のテープを聴かせた。日本で私立小に通わせるなら、学費が安く、英語も中国語も学べる上海でと考えた。 唐さんは、小学生だったころの記憶に今も時折うなされる。ストップウオッチを手にした算数の先生が、児童を立たせて1人ずつ20問のドリルを解かせる。時間内にできないと廊下に立たされた。「自分の考えを育てない中国の教育がいいとは全然思わないですよ。でも、就職も競争、結婚だって競争。競争のない人生はない」 ■学歴至上にためらいも 一方で、迷いや戸惑いを振り切れない親もいる。 東京都内の王鳳英(ワン・フォンイン)さん(45)は毎日、長男(10)が塾や学校で習う内容を、一つ一つ中国語に訳して問題集の余白に書き込み、暗記させてきた。長男は王さんの仕事の都合で4歳からの3年間、北京で育った。「この子には言葉の壁もある。先生の話を本当に理解しているのかどうか」 北京の大学で物理を教えていた王さんは90年、留学した夫の戴昭宇(タイ・チャオユイ)さん(46)を追って来日。日本では長男の勉強のサポートに徹してきた。 「いい大学に入らなければ、人生のパスポートが手に入らない」。その思いのほかにもう一つ、競争に負けられない理由がある。地元の小学校に通っていた長男が2年の時、「学校に行きたくない」と言い始めた。浴びせられた罵声(ば・せい)の意味を、王さんに尋ねることも増えた。学校や教育委員会にも相談したが、納得いく対応が得られず、王さんはこう思うしかなかった。「外国人は自分しか頼れるものがない」 一方、夫の戴さんは、医師として患者と接してきて「人の魅力や幸福は学歴では測れない」と思う。だが「あなたの意見は理想論」という妻の意見も否定できない。「妻と二人三脚で暗中模索です」 日本と中国。双方の教育を体験する中で、自分なりの答えを見いだす人もいる。 川崎市の喬蕾(チアオ・レイ)さんは夫と長男(14)の3人暮らし。長男が小学1年の時に約1年間、実家のある北京の小学校に通わせた。仕事で日本に残った喬さんは、電話で学校の様子を聞くのが日課になった。 中国では、担任が成績や態度の良い児童を様々な「幹部」(委員)に指名する。ある日、長男が「扇風機の担当幹部に指名された。僕にだけ、つけたり消したりする権限があるんだ」と得意そうに話した。「幹部って何をするの」。そう尋ねた喬さんに、長男は「みんなを管理するに決まってるじゃないか」。それを聞いて、喬さんは長男を日本に呼び戻そうと決めた。 「権力を持つことが偉いと思うような人生は送ってほしくなかった」。母国で官僚だった喬さんがいう。長男が通った川崎市立の幼稚園で、全員に交代でいろいろな係を経験させる日本の教育に共感していた。 「世の中にはいろんな一番があることを日本に来て知った」と喬さんは語る。呼び戻した長男が、喜んでゴミ出し係をする姿を見て安心した。(林望) ◇ 出世して、日本でしっかりと生きてほしい。そんな親の思いに応えようと、華人の子供たちが受験で奮戦する。だが、日本の教育になじめない子供たちも非常に多い。いかに対応するか。考える間も、新たに、中国人留学生が続々とやってくる。13億人の隣国から少子化の日本へ若者が流れる構造がある。「在日華人」シリーズ第2部は、教育現場から報告する。(五十川倫義) A (朝日新聞社):天才の育て方一覧 - 小中学校 - 教育 現在位置 : asahi.com > ライフ > 教育 > 小中学校 > 天才の育て方一覧 B (朝日新聞社):天声人語 天声人語 2009年3月9日(月)付 作家の村上龍さんが5年前に著した『13歳のハローワーク』を読み返した。あらゆる職業を紹介するにあたり、著者は子供たちに説く。「嫌いなことをいやいやながらやるよりも、好きで好きでしょうがないことをやるほうがいいに決まっています」 ▼そして、こう助言する。「13歳は自由と可能性を持っています。だからどうしても世界が巨大に映ってしまって、不安ととまどいを覚えるのです」。村上さんによれば、満ち足りた人生の出発点は好奇心だ。 ▼横浜市の中学1年生、山崎一哉君が気象予報士に合格した。好きこそ物の上手なれという通り、幼時から図鑑を眺めるのが好きで、面白い雲を見つけるのが楽しみという。最年少記録の13歳7カ月にして「好き」と「上手」を重ねてみせた。 ▼94年に始まった予報士の試験に、年齢制限はない。合格率は平均6%の狭き門で、山崎君は小5から4度目の挑戦だった。抱負も「台風や大雨に慌てない予報士になりたい」と堂に入る。 ▼生ある限り挑める最高齢の記録と違い、最年少のほうは歳月が奪い去る。もっとも、好奇の的を絞った理科少年にすれば、記録など二の次だろう。いつの日か「上手」を仕事につなげてもらいたい。 ▼先々の予想は気象予報士の勝負どころだが、さすがの山崎君も10年後の自分は見通せまい。「人生の朝方」は発達した好奇心で気圧配置が安定せず、空模様に一喜一憂させられるものだ。予想が悪い方に外れたら、やり直せばいい。10代の天気図はうらやましいことに、夢も悩みも鉛筆で描かれている。 |
03 11(月) 子育て(0歳教育)の実践記録公開を |
@ 小さいときから一つのことを繰り返していく「個人によるインプット法」で、 才能開花を実現したという実例は、 一般に知られています。 |
孟子の母は、子供の教育に適した環境を選んで居所を三度引っ越したという故事。 故事:「古列女伝−母儀・鄒孟軻母」 初め墓所の近くに住んでいたところ、孟子が葬式の真似をして遊ぶので市中に引っ越した。 今度は商売の真似をするので学校の近くに引っ越した。 すると礼儀作法を真似たのでそこに居を定めた。 |
常に見たり聞いたりしていれば、知らず知らずのうちにそれを学び知るようになるということの喩え。 環境がその人に与える影響は大きいということの喩え。 類:●勧学院の雀は蒙求を囀る 反:■習わぬ経は読めぬ |
運動、音楽、趣味分野 浅田真央(スケート) タイガー・ウッズ、石川遼(ゴルフ) 北島康介(水泳) 千住真理子(バイオリン) 山崎一哉(気象予報士) 子育て分野 (記録のあるもの) カール・ビッテ〔要約した書物「早教育と天才」〕 ジツコ・スセディック〔市販された書物「胎児はみんな天才」〕 (育児方式による) 「ドーマンメソッド」(「折々の記」で紹介。) 市販された書物 「子どもの知能は限りなく」 「幼児は算数を学びたがっている」 「親こそ最良の教師」 ※ 運動、音楽、趣味分野の人たちの記録はタイガー・ウッズのものがあるだけです。できることなら、 親たちの育児記録がほしいのです。 |
A 方向性をもった組織の中で繰り返しによって能力開発をしていく「集団によるインプット法」で、 才能資質を築き上げる方法もあります。 |
本校の起源は、歴史を紐解けば、米沢藩の藩校にまで遡ります。学校沿革に拠りますと、元禄十年(1697年)6月15日、上杉五代目の藩主上杉綱憲は聖堂・学問所を建立、これが米沢藩学館の始めであるとあります。次いで、明和八年(1771年)5月2日、折衷学派の碩学細井平州が学問所再興を意図する藩主上杉治憲(米沢藩中興の祖である鷹山公)の招聘に応じて米沢に下向、松桜館において学生に講授し、これが、後の興譲館の始めである、とあります。さらに、安永五年(1776年)9月19日、平州は、落成した学館「興譲館」の講堂に於いて初めて『書経』を講じたとあり、本校では、この日を興譲館創立の日としています。 校名の「興譲」は、儒学の聖典『大学』の中の、「一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲」(一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国譲に興る)という言葉に由来します。 本校は、開学以来の、この興譲の精神を教育精神とし、現在は三つに分けて生徒たちに示しています。 「一、自他の生命を尊重する精神。」 生徒たちには、自分の生命を愛おしみ、自分らしく生きることが、他者の生命や生き方を尊重することに他ならないことを知って欲しいと考えています。 「一、己を磨き、誠を尽くす精神。」 生徒たちは、美しいものや人間の真実、永遠なる真理の前に謙虚に頭を垂れて、己を磨く人間であってほしいと考えています。 「一、世のために尽くす精神。」 生徒たちには、志を高く掲げた生き方を目指して欲しいと思います。それは、自分の利益のみを追い求めるのではなく、世のため、人のためにあることを目指して生きる生き方であり、仮に世に認められること少なくとも、かく生きたことを、誇りをもって語ることのできる生き方だと考えています。 興譲館は、開学以来、国の内外に数多の人材を送り出してまいりました。時代は移っても、世に有為な人間を育てることを本校の使命として、学校経営に当たってまいります。 |
この藩校からは伊沢修二〔明治近代教育開拓者、東京音楽学校(現芸大)初代校長、「小学唱歌集」生みの親〕、伊沢多喜男〔修二の弟、各県知事、台湾総督、東京市長-高遠城址公園に有名な「無字の碑」がある-〕、中村不折〔洋画家、書家〕、池上秀畝〔日本画家〕、中村弥六〔国際法の東大教授〕、坂本天山〔荻野流砲術と学問で知られ、西駒ヶ岳の前岳に石碑が残っている〕、高橋白山〔学者、信州教育の開拓者〕などなどを世に送り出しました。 |
岩村藩校・知新館は元禄15年(1702年)に藩主松平乗紀(のりただ)によって創立されました。美濃国においては最初の藩学であるばかりでなく、全国的に見ても藩学としては古く、十指に入ります。藩学の確かなものは全国で255校ありますが、設立の状況を時代的に見ますと寛文(1661年)から貞享年間(1684―1687年)期に設立されたものが4校、元禄(1688年)から正徳年間(1711―1715年)に設立されたもの6校、合せて10校にすぎません。知新館はこの10校のうちに入ります。 全国の藩校の多くは享保以降の設立で、いかに岩村藩が早くから文教政策に重点をおいたかがわかります。 別な資料では岩村藩より創立の古いものは、摂津有馬(兵庫県)の造士館、米沢(山形県)の興譲館くらいのもので、五指に入るといわれています。 知新館が創立された頃の岩村藩はまだ2万石で、3万石になったのは享保20年(1735年)松平乗賢(のりかた・乗紀の子)の時代でした。2万石の小藩でありながら、全国的に見ても早くから文教政策に重点をおき、有能な藩士の育成を図り、松平氏代々の伝統的政策の基を築いた松平乗紀の先見の明には敬服のほかはありません。 江戸時代に日本の学問をリードした林述斎、佐藤一斎等を岩村藩から出したことは決して偶然ではなく、元禄から知新館という藩学の土壌が培われていたからです。 |
春台の著作は多いが、『経済録』が主著である。『経済録』は彼の経世思想を書いた、現代的には政治論・経済論であるが、第1「経済総論」、第2「礼楽」、第3「官職」、第4「天文地理」、第5「食貨」、第6「祭祀・学政」、第7「章服・儀仗・武備」、第8「法令・刑罰」、第9「制度」、第10「無為・易道」の10巻からなっている。このうち春台の学校論・教育論は、第6「学政」の項、その他の著作では『聖学問答』『弁道書』などに展開されている。 春台は「学政」で次のようにいう。
では、天下国家を治める人材とはどのような人間をいうのか。それは、博い知識と広い視野を持ち、見識の高邁な人物を指す。春台によれば、このような人物は学問をすることによって育成されるのである。だからこそ、学校という組織が必要なのである。
続いて、中国を例に引きながら、人材主義を主張するのである。
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■ 海陽学園…全寮制の私立学校〔4/09,4/10,4/14〕 ちょうど米沢興譲館高等学校が藩校「興譲館」の精神を受け伝えているのと同様に、イギリスの 「パブリックスクール」の精神を受け伝えて全寮制の海陽学園を発足しています。 * 多くのサイトがあるから、調べるとよい。 海陽中等教育学校の建学の精神 1 高潔で明朗闊達な人材の育成 2 基礎学力の徹底した修得 3 健全な身体、強靭な意思の涵養 4 学問の楽しさを知る教養豊かな人材の育成 5 日本の伝統・文化に立脚し、国際社会で活躍できる人材の育成 ■ 興譲館高等学校(岡山県井原市)…嘉永六(1853)年創立 米沢藩の興譲館を使ったのはなぜなのかわからないが、「白鹿洞書院掲示」を日常の教育活動 の中に具現化し「人としての生き方、考え方」を教え、質の高い人間力を備えた生徒を育成する ことを目標としています。 ■ 育児のグループ化 一番望ましい方法は、数人のグループで能力育成を実践することです。 |