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折々の記 2009 F

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】教育問題のまとめ【その六】        【 02 】教育問題のまとめ【その七】
【 03 】教育問題のまとめ【その八】        【 04 】教育問題のまとめ【その九】
【 05 】教育問題のまとめ【その十○】        【 06 】教育問題のまとめ【その十一】
【 07 】教育問題のまとめ【その十二】        【 08 】教育問題のまとめ【その十三】
【 09 】教育問題のまとめ【その十四】        【 10 】教育問題のまとめ【その十五】
【 11 】教育問題のまとめ【その十六】        【 12 】教育問題のまとめ【その十七】
【 13 】教育問題のまとめ【その十八】        【 14 】教育問題のまとめ【その十九】
【 15 】教育問題のまとめ【その二十】

以上で「教育問題のまとめ」終わり



【 03 】07/28

07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その八】

   2007 08 30(木) 破滅の一途 - 3
   2007 09 14(金) 泰山の教え
   2007 09 16(日) 孔子の教え“恕”

08 30(木) 破滅の一途 - 3

【A】盛者必衰 (じょうしゃひっすい)

“無常”の検索で開く‘フリー百科事典『ウィキペディア』’の説明では、「刹那無常」と「相続無常」の二つの説明の仕方を紹介しています。

この盛者必衰も同じように理解するとすれば、「刹那必衰」と「相続必衰」の二つに分けて理解したらいいと思います。 例えば、帰化植物がその生育にマッチした条件があればぐんぐん繁茂するが、生育条件が悪くなれば順次衰退の一途をたどることと同じことです。

昭和の初期に大豆の搾りかすに混じって来たと思われる「朝鮮菊」は、桑園一面にいつも生えており草掻きの野良仕事には目立った草でした。 今では殆ど見あたりません。 知らぬ人が多いのです。 こうした事例でも「刹那必衰」と「相続必衰」を理解することができます。

草ばかりでなくて一軒の家にしても、条件がよければ繁盛するけれども、条件が悪くなればたちまちにして廃墟に帰してしまいます。 

私たち年配のものは、文部省唱歌の「鎌倉」で、栄枯盛衰を学びました。 歌ったときにはその意味も知らずに歌いましたが、後になって“興亡すべて夢に似て”の中身もわかるようになりました。


     鎌 倉   作詞者:芳賀矢一/作曲者:不詳   尋常小学読本唱歌(明治43年)  

 一 七里ガ浜の磯伝い    「七里ガ浜の磯伝い」と詠われていますが、今では国道134号線を間断なく走る車…とても 
   稲村ケ崎、名将の    往時の風景は想像できません。 元弘3年(1333)5月、新田義貞鎌倉攻めの時の古戦場で
   剣投ぜし古戦場     義貞は太刀を海に投じ、干潟に乗じて兵がいっきに鎌倉中へ乱れ行ったと伝えられる。

 二 極楽寺坂越え行けば   この歌が作られた明治の頃の極楽寺坂界隈は鬱蒼とした山の中を歩くような感じだったこと
   長谷観音の堂近く    でしょう。 そんな坂を下った先の開けたところに長谷観音と大仏…とっても大きい仏像を
   露坐の大仏おわします  目にした人々の驚きの顔が浮かびます。 

 三 由比の浜べを右に見て  これは現在の由比ガ浜商店街(海岸通り)から右に当時は海岸が見えていたのでしょう。 そ
   雪の下村過行けば    の海岸通りから六地蔵を経て下馬四つ角へ出て左折し、若宮大路を真直ぐ八幡宮へと行った
   八幡宮の御社      のでしょう。 当時、このあたり一帯も農村地帯であったようだ。

 四 上るや石のきざはしの  本宮前の大石段横にあるのが県天然記念物指定の樹齢1000年を超えているといわれる大銀杏
   左に高き大銀杏     です。
   問わばや遠き世々の跡  承久元年(1219)1月3大将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れた木と伝えられる。

 五 若宮堂の舞の袖     鎌倉時代の伽藍配置は現在とは全く異なっていたようで、義経の愛妾静御前が舞を披露した
   静のおだまき繰返し   ところは現在の舞殿(下拝殿)ではなく、回廊の一部で舞ったとの考察もある。
   返せし人をしのびつつ  毎年4月第2日曜日に「静の舞」が奉納される。

 六 鎌倉宮にもうでては   鎌倉宮は大塔宮とも呼ばれる。護良親王は足利尊氏と対立し幽閉された。 本殿の背後に幽
   尽きせぬ親王のみ怨みに 閉されたと言われる土牢がある。
   悲憤の涙わきぬべし   毎年10月8〜9日に「鎌倉薪能」が行われる。

 七 歴史は長き七百年    この唱歌が世に出て100年が経過し、700年を800年と歌わなければいけないのかもしれません
   興亡すべてゆめに似て  鎌倉幕府(大蔵幕府)は治承4年(1180)でしたから、2000年の今年でちょうど820年なんですね。
   英雄墓はこけ蒸しぬ   ちなみに源頼朝は正治元年(1199)に58歳で亡くなった。

 八 建長円覚古寺の     円覚寺は臨済宗円覚寺派の総本山で鎌倉五山第2位。 建長寺は臨済宗建長寺派の総本山で
   山門高き松風に     あり鎌倉五山第1位である。ともに禅寺であり、何か静寂な中にも逞しさを感じる。 早朝
   昔の音やこもるらん   人のいない朝靄に煙る境内が好きです。


歌では鎌倉だけでなく、拾い出せばいくつも出てきます。

たとえば次の歌は<http://homepage3.nifty.com/TAD/index.htm>「花と詩と音楽と」の ページを開いて、「私の音楽ノート」をクリックすれば説明と演奏が聞けます。


                    故郷の廃家--- 中等教育唱歌   作曲:W.S. Hays  作詞:犬童球渓

              この歌も、私の家の近くに住んでいた従姉妹が歌うのを聞いて覚えた曲である。このよ
             うな軟弱な歌を、太平洋戦争中の中学校が教える筈もない。

                 この曲を聴くと、空襲で焼け落ちた昔の我が家を想い出す。

                        幾年(いくとせ)ふるさと、来てみれば
                             咲く花、鳴く鳥、そよぐ風、
                        門辺(かどべ)の小川の、ささやきも、
                                  なれにし昔に、変わらねど、
                             荒れたる我家に、
                                  住む人、絶えてなく。


              私は、祖父と祖母と三人で岐阜の郊外に住んでいた。家の庭に松の木が植えられていた。
             秋の夜中、ふと眼をさますと、月に照らされた松の影が障子に映っていたことをかすかに覚
             えている。その障子紙には、蜂が巣を作るために咬んで行った跡が残っていた。

                        昔を語るか、そよぐ風、
                             昔をうつすか、澄める水、
                        朝夕かたみに、手をとりて、
                                 遊びし友人、いまいずこ、
                             さびしき故郷や、
                                 さびしき我が家や。


              私の住んでいた家は、昭和20年7月、米軍機の焼夷弾空襲で焼け落ちた。年老いた祖父
             母には家を建て直す力もなく、その土地は人手に渡った。

              昨年11月、40年ぶりに昔の家の跡を尋ねた。そこに建っていた家にはあと継ぎがないとか
             で、まさに廃屋であった。家の近くにあった小川もうめられて、道路になっていた。

              この歌を最後に習い歌った世代の女学生は、今は何歳ぐらいになられるのであろうか。
             知りたいものである。


私の在所の母の生家も、わたしにとってはいろいろと思い出はあるのに今は廃屋どころか宅地もなくなって、むかし人が住んでいたとはとても思えないようになっています。

   夏草や つわものどもが 夢の跡   芭蕉

平泉を訪れても、芭蕉がどこで何を目にして発句したのかさえ定かではありません。 

新潟津南町赤沢平の人々が、どんな思いで秋山渓谷へ落ちていったのかなど、考えるだけでも哀れになります。

こうした盛者必衰の歴史を尋ねてみると枚挙に暇がありません。

つぎに【B】無常観だが、27日とダブってはいけないから省くことにします。 最後は煩悩についてです。

【C】煩悩 (ぼんのう)

破滅の一途という主張の最後の理由は、人は煩悩からはなれて昇華した行動をとれないことです。

無常は人為のいかんとも為しえない哲理です。 そしてその意味内容は理解できるものです。 ところが、無常を悟ったとしても滅びの美まで昇華できるでしょうか。 なかなかそれまでできるわけに参りません。 ここに至っていわゆる煩悩が私たちの前途に大きく立ちはだかってくるのです。

人間の欲にはいろいろあって、挙げていけば限がありません。 頭がよくなりたい欲、経済的に裕福になりたい欲、健康になりたい欲、いつまでも生きていた意欲、いろいろ挙げていけば際限がないのです。 仏教ではそれらすべてひっくるめて、百八煩悩と言っております。 日本大百科全書では次のように説明しております。


     煩悩  日本大百科全書

仏教で説く、衆生(しゅじょう)の身心を煩わし悩ます精神作用の総称。クレーシャkleaというサンスクリット語が中国で「煩悩」「惑」と翻訳されたのであるが、この語は「汚(けが)す」という意味合いももっており、そのために「染(ぜん)」「染汚(ぜんま)」などとも訳された。

またこのことばは元来、不善・不浄(ふじょう)の精神状態を表す数多くの仏教術語のうちの一つであったが、やがてそれらの心理作用や精神状態を総称し、代表することばとして使われるようになった。

このような広い意味での煩悩には、もっとも基本的なものとして、「三毒」「三垢(さんく)」「三不善根」などといわれる貪(とん)(執着)・瞋(じん)(憎悪)・痴(ち)(無知)がある。

これに慢(まん)(慢心)・疑〔(ぎ)、仏教の教えに対する疑い〕・見〔(けん)、誤った見解〕を加えて六煩悩といい、根本的な煩悩とされる。

このほか、潜在的な煩悩である随眠(ずいめん)、現に作用している煩悩である纏(てん)、あるいは結(けつ)・縛(ばく)・漏(ろ)など、人間の不善の心理状態を詳細に分析して、きわめて多種多様の煩悩が説かれ、「百八の煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれた。

これらの煩悩を滅ぼし尽くすことによって解脱(げだつ)することができるのであり、したがって煩悩はあくまで断じられるべき対象として説かれたのである。

しかし後世の大乗仏教のなかには、煩悩と悟(さと)りの本質はなんら異なるものではないという、「煩悩即菩提(ぼだい)」を主張するものも現れるに至った。

このように煩悩の問題は、悟りの境地と深くかかわるため、重要なテーマとして仏教においてさまざまな形で論じられている。 [池田練太郎]

【慣用句・ことわざ】

煩悩(ぼんのう)あれば菩提(ぼだい)あり  迷いがあるからこそ悟りを開くこともある。

煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼたい)  仏語。煩悩にとらわれている姿も、その本体は真実不変の真如(しんにょ)すなわち菩提(悟り)であって、煩悩と菩提は別のものではないということ。

煩悩(ぼんのう)の犬は追えども去らず  煩悩は人につきまとって、飼い犬がまといつくように離れない。


親が子孫のために寸暇を惜しんで働き財を成したとしても、その子は親ほどの気持ちはわかりません。

気持ちどころか、食べ物にしても旨いものを食べつけると、親がまずいものを食べて我慢してきたことなど何も伝わりません。 食べるものも着るものも、道具の扱いにも、ものを大切にする心積もりも、親の心根はどの分野にしてもそのままでは伝わりません。

生活の中身は、文化的にも経済的にも或いはそれに伴う価値観にしても、無常といえば無常、どんどん変わっていきます。

良いも悪いも区別なく変わっていくのです。

大家族の生活のなかで育てられてきたものも、小家族になればそれなりに変わってしまいます。 親の労働を見て育ってきた時代と、親が勤めで親の汗水流して労働する姿を見ないで育ってきた次代とでは、子供も変わってくるのは当たりまえといえましょう。

家庭の秩序崩壊が進んだといえば、それはそうかもしれません。 親子関係の絆が薄くなったといえば、それはそうかもしれません。

古き時代の藩校で幼時から書見台のまえに正座して教育を受けた時代はなくなり、寺子屋で読み書きそろばんを習った時代も過ぎさりました。 過去の教育制度は変わってしまいました。 改善なのか改悪なのかは別にして変わってしまいました。

日本社会の中の空気にしても、儒教的な匂いはなくなってきております。 誠実を重んずる気風、そんな言葉すら聞かなくなってきております。 高等教育を受けた人からも、なんの衒(てら)いもなく“お金をもうけて何が悪い”と聞かされる時代になってしまいました。

近江聖人という人を知っている人も少なくなってしまいました。 日本からは儒教教育の儒の字も聞かなくなってしまいました。

そしてそれが文明社会、民主国家、戦後レジューム脱却であるかのような薄っぺらな価値観しかもたない言葉が残ってしまいました。 これが煩悩に悩んだ日本の人たちの成れの果てなのでしょうか。

煩悩に苦しみ、より良い生活を求める気風はどこへ行ってしまったのでしょうか。 みんな、自分本位の欲望追求で狂っているような社会になり果ててしまったのでしょうか。 

かくて、このままの流れは静かな大河の流れとなってすべてをのみこんで破滅の一途ヘつきすすんでいく。

人間の良心を引戻し、本来の人間らしい仁義の価値観を回復できないのでしょうか。

それは、ずっと昔から厳然として「その方法」があるのです。

それはことに日本のすばらしい「修行形態」で伝えられております。 

「破滅の一途」に向かうにしても、採るべき最良の方法は「修行形態」を流布して、美しき終焉を迎える心得をもつことです。 

この修行形態で誰でも知っている一つは永平寺の修行です。 共同生活のなかから人が必要とするすべての事柄を習得することができるからです。 中身は仏法でありますが、無常に徹したとき地球破滅の終焉にどう対処したらいいのかという生き方を一人ひとりもつこともできるはずです。

もう一つは戦後30年代まで続いていた住込み就職です。 ずっと昔は「丁稚奉公(デッチボウコウ)」といいました。 「他人(ひと)の飯を食う」体験は絆を確かなものにするためにとても大事な形態なんです。 ここで親子の絆はもちろん、仕事の価値、人との関係、約束履行、人情醸成など人としての大切なことを自分のなかへ取り入れる形態なんです。

『諦観』という言葉があります。 27日の無常観の終わりのほうに出ていますが「諦」の字は「真相をはっきりさせる」という意味と出ておりました。 真相がはっきりしたらどんな方便があるのだろうか。

地球温暖化を防ぐために採るべきことは何か。 温暖化につながる二酸化炭素排出量削減に積極的に参加することです。 このことは日常生活すべてにわたっているのです。

それにもう一つ、国益という言葉を使って得て勝手な理論によって戦争へ向かって動きはじめている政治をなんとしても喰いとめなくてはなりません。

清貧を大事にした良寛さまのように、自分勝手な考えを持たず、美しく滅びる心を築き上げたいものです。

長々とまとまりもなく書き散らしましたから、読みにくいかもしれません。 コオロギが生まれて死んでいくように、自然の動物と同じように慌てることなく果てたいものです。

09 14(金) 泰山の教え

朝ドラの「どんど晴れ」の中で南部鉄器職人平治が女将の環さんに大女将について語る場面がある。

岩手山のようにして、まわりの見える動きをジッと見ていろ、というのです。

“大女将も、わしにはいろいろとぐちった。 人は愚痴ってもいい。 わしは口が固いから、人にもらすことはない。 女将も、岩手山になっているといろいろ見えてくる。”

というようなことを語っている。

なかなかうまいことを言っている。

そう思ってみると、「巧言令色鮮なし仁」の句が浮かぶ。

関連するHPを掲載する。

http://homepage1.nifty.com/kjf/index.htm <中国故事物語>

巧言令色鮮なし仁

      ――巧言令色、鮮なし仁。(巧言令色鮮矣仁。)(「論語」学而篇・陽貨篇)

        というのは、孔子の言葉で、「口先が巧みで、角のない表情をするも
     のに、誠実な人間はほとんどない」という意味である。

        これを裏返して、孔子はまた、

        ――剛毅木訥、仁に近し。(剛毅木訥近仁。)(「論語」子路篇)

        すなわち、「剛毅で飾らぬ人間は、(誠実なのだから)完成した徳をそ
     なえたものに近い」とも言っている。利己的な打算がなければ《飾る》
     必要がないのだから、当然《木訥》になるであろうし、みずから正しい
     と信ずるものの前には、その生命さえ惜しまぬなら、当然《剛毅》にな
     るであろう。しかし、このような人間でも、《仁》(完成した徳をそな
     えた人間)そのものではない。

        孔子は、

        ――文質彬々として、然る後に君子なり。(文質彬彬、然後君子。)
                            (「論語」雍也篇)

        とあるように、文(形式)と質(実質)とが彬々として(調和して)いるこ
     とを、君子(徳をそなえた人間)の条件としていたのである。

        だから、弟子たちには、

        ――博く文を学び、之を約するに礼を以てす。
              (博学於文、約之以礼。)(「論語」雍也篇・顔淵篇)

        と、多方面に文(ここでは学問すなわち実質)を学び、それを礼(形式)
     で整理統制することを強調しているのだ。決して剛毅木訥という荒削り
     な態度を薦めているわけではない。

        しかし、その剛毅木訥を推称しているかに見えるほど、孔子は、巧言
     令色の徒を憎んでいた。


        その増悪は、

        ――その之を言うてハジざれば、則ち之を為すや難し。
          (其言之不zuo<立心偏+乍>、則為之也難。)(「論語」憲問篇)
       (臆面もなくものを言うような奴には、到底実行はできぬものだ。)

        と言う痛烈な言葉を吐かしているほどである。孔子は何よりも、巧言
     や令色によって、他人を瞞着する、その狡猾さを憎んだのだ。

          政党の公約は不履行に終るのが常識だが、国民を欺瞞して恥じぬこの
     ような巧言令色の徒の充満している今日、孔子のこの言葉には、私たち
     の俗根を凛々と打ち叩くものがあるのではないか!



09 16(日) 孔子の教え“恕”

今から2〜30年ほどまえ、学校にいた頃には「孔子の教え“恕”」について毛涯章平先生の話としてお聞きしていた。

一昨日の「折々の記」に取り上げた<中国故事物語>を開くと、役に立つ項目がいっぱいある。

「己の欲せざる所は人に施す勿れ」 あれ〜? これはキリスト教で説いている言葉ではないか。

それで、その項<己の欲せざる所は人に施す勿れ>を開いてみた。 あるある! 私たちが概要をつかむ程度としては十分な説明がのっている。

この言葉は『論語』に出てくる孔子の言葉であった。

  其恕乎。己所不欲、勿施於人。(『論語』衛霊公篇)
     それ恕か。己の欲せざる所は人に施す勿れ。

【データには次の説明がある】 

……孔子は、 己を虚しゅうして[天]の権威に順うこと、 その[教え]、 すなわち[道]にいそしむことを、 人生の本義としている。……

 従って、子貢のような[自己意識]を抱きながら、他人に強要しないという行為は、事実としてあり得ぬことと思われたのだ。

 [恕]は、自己を抛棄する所に可能となる。従って、孔子はこの言葉によって、[我]から離れよ、ということを教えたのだ。そして、この教えは、高弟の曾子が、

    夫子之道忠恕而已矣。
     夫子の道は忠恕のみ。(先生の[道]は、誠意と思いやりにつきる。)

  と言っているように、教義の根本をなすものであった。

     <天>とは

恕の解説は‘おもいやり’であった。 難しい説明は何もなくても、誰にとっても一番わかりやすいし、ほんとそうだと納得できる。 

この説明を読んでみると、漱石の『即天去私』は漢文学への造詣もわかり、面目躍如たるものがある。 己を虚しゅうして[天]の権威に順うこと、その[教え]、すなわち[道]にいそしむこと………すなわち、漱石によれば『天道』に近づけない心のわだかまりが〜金と名誉と女〜であり、その極みが〜自殺か発狂か宗教か〜であり、そして心のわだかまりを乗り越えて〜即天去私〜に辿り着いたのである。

『道は忠恕のみ』(まじめおもいやり)というのは、「五蘊皆空」と観じたあとの「進むべき基本」を示したものと思われる。 「五蘊皆空」をもとにして「眼横鼻直」とか「花は紅に柳は緑に」の言葉が成り立っている。

すばらしい考え方です。

キリスト教でいう「己の欲せざる所は人に施す勿れ」は、子貢の考え方であり、孔子の考え方はもっと深いところまで根を張っていたのです。

お釈迦さまの教えには、「無財の七施」など具体的な行動まで称揚しています。 これまた、すばらしい考え方です。